はじめに
数ある和楽器の中でも、今回取り上げるのは、三線、もしくは三味線と呼ばれる類である。このテーマについて調べるのに用いた文献は、東洋音楽会『三味線とその音楽』(音楽之友社、1978年)である。さらに、今回使用した章は田辺尚雄の「東洋の三味線について」と、吉川英史の「三絃伝来考」だ。
また、前提として、「東洋の三味線について」によると、三味線という名の楽器は日本独自のものであり、これと同系統のものを中国では三絃、琉球では三線と呼ぶようだ。また、中国の三絃が琉球に渡って三線へと変化し、さらにそれが日本本土に渡って三味線となったということも述べられている。今回は、中国の三絃のルーツ、および中国から琉球へ三絃が伝播し、変化していった過程についての記述を、主に紹介する。
三絃のルーツ(『東洋の三味線について』)
「外邦起源の二絃楽器を愛用していた蒙古人が、征西により、更にタンブールやセタールの知識を伝え、このうえにある種の擦奏楽器の制を学び、それらに基づき中国人が改造新作したもの」、であると述べられている。
中国から琉球へ三絃が伝わり、三線へと変化した過程(『東洋の三味線について』)
三絃は、明の初め頃、1372年以降(琉球が明に朝貢するようになった時期以降)に、琉球に伝わったようだ。朝貢によって交易も盛んになり、同時に中国人移民も増えていった。彼ら移民は、琉球の久米村を本拠として居住するようになり、そこに中国の三絃を持ち込んだ、ということが述べられている。
久米村に居住した移民は、当初、中国式の生活をしていた。例えば、琉球人が琉球人が日本人と同様に床上に正座していたのに対し、移民達はイスとテーブルを用いていた。であるから、この当時の三絃も全く中国と同じものであったようだ。では、どのように三絃は変化していったか。
この後、中国移民は琉球人に同化するようになった、と著者は述べている。なぜだろか。明朝が倒れ、清朝となるとともに、清朝政府は、満州人の辮髪を、一般の中国人に結ばせるようにした、とある。この風潮を嫌う中国人は、琉球に来て、髪形や生活様式を琉球人と同様にした。琉球人になりきり、中国政府の目を逃れるためであったようだ。
生活様式と同時に、三絃も琉球式に改めたようだ。前述の通り、琉球人は正座し、中国人はイスに座っていた。であるから、琉球人に同化するためには、正座して弾かれるようにしなければならなかったようである。ここで、琉球特有の三線の原型が現れた、と著者は述べている。
琉球経由説への異論(「三絃伝来考」)
前述の通り、三絃は、琉球経由で日本本土に伝わったのが通説であるようだ。しかし、この説に関して、異説を提起した者がいる。それは、津田左右吉だそうで、彼は『東洋学報』に掲載された「三味線の伝来」の中で、そのことに関して述べている。また、津田の説に反論したのは、山内盛彬《彼の意見はどこに書いてあるか?もう一度図書館で調べる!》であるようだ。津田の説と山内の説を対照させて紹介する。
津田は、「伝来の媒介地として琉球に近い薩摩の名が出ないのは不思議であり、薩摩人が早くから三味線を弄んだことも聞かない。この点からも、琉球経由は考え難い。」、「琉球に三絃が行われていることを書いた中国の古記録『中山伝信録』徐ほう光が康?五十九年(1720年)に琉球へ行った時の見聞録で、永禄より百五十年も後の本であるから、日本内地よりも早くから琉球の方に三絃があったという証拠にはならない。」ということを述べている。それに関して山内は、「薩摩の学者 伊地知季安の著 『南 記考』の天正三年の条には、琉球人が薩摩で三味線を弾いたという記録がある。」と述べている。
《分かりにくかった部分を調べる》
論評
私がこの本を読んで面白いと思った点には、《ほぼ同じことを書く》
逆に、残念だと思ったのは、日本本土と琉球の交流に関する、詳しい記述が見つけられなかったことである。
