備中神楽の特徴
―記紀神話・芸北神楽との比較から―
卒業論文演習
岩本 梨沙
1.本研究の目的
本研究では、備中神楽の特徴に関して、古事記及び芸北神楽と比較し、考察する。
2.研究対象の概要
備中神楽とは、荒神信仰1を基盤としているために荒神信仰とも呼ばれる神楽である。備中地方には中世からの地縁的組織の名2が発達しており、その名を基盤に荒神の式年祭祀の荒神神楽が社人たちによって伝えられてきた。この社人たちの神楽に、文化文政期(1804-1830)に備中成羽の神職である西林国橋が創案した神代神楽(「岩戸開き」「国譲り」「大蛇退治」「吉備津」から成る)を導入して完成したのが備中神楽であり、非常に分かりやすい形式を持つ(三村,2013:203-204)。
備中神楽の演目に関して、指さしの舞とは、神楽の役割分担を知らせる舞である。鈴と差紙を持って一人で舞うものである。榊舞では、一切の人・場を清める。はじめは鈴と扇子で神歌(四季の歌)を唱え、次に榊を手にとって神歌を歌う。榊は今でも神聖な木であり、この舞では葉を千切って、四方にまきながら清める。太夫が一葉口にくわえているが、最後には二つに千切って投げる。
茣蓙の舞では、新しい茣蓙を敷いて、神々を迎える舞である。神楽では、注連と茣蓙をもって神殿に見立てる。茣蓙は、場の設定でも最も神聖なものである。「ござ飛び」と呼ばれるものがあり、茣蓙の端をもって、両足の下を縄跳びのようにくぐらせるものである。熟練すると200回以上飛ぶこともあるそうである。
白蓋神事(動座・鎮座)では、八百万の神々を勧請、鎮座を願う。
猿田彦の導びきの舞とは、神話「天孫降臨」のとき、その導きをしたと伝えられる猿田彦の由来を説明するものである。「曲舞」をしながら、以下のように歌う。
神歌「猿田彦、もろ神たちの先払い、うれしく召され天地の神」
「さって猿田彦大神の由来根源、あらあらしく尋ね奉れば、なかなかご大徳の神にましませば、詳しきことは略して申さん。(中略)この神の姿をみれば、鼻の長さは七はたあまり、正に、七尋とも言うべし、又、口かくれ、明かり照り眼は八呪の鏡の如く照りかがやくこと赤がわちに似たり。(中略)それなる神は如何なる神にてましますか。翁答えて曰く吾れは太田猿田彦大神なり。(中略)」
猿田彦舞では、白装束に赤よろい、白しやぐま、赤く高い鼻、照り輝く眼に荒々しく勇敢な舞が舞われる。はじめに、両手の扇子できらびやかな舞を舞い、後半、剣をもって、千道という切紙を悪魔に見立てて切り払う。厄払いの神、新築祝い等でも単独で舞われる。
こけら払いとは、新築落成を祝う幸運の神の舞猿田彦の舞であるが、普通の神楽では省略される。
国譲りとは、神々が勅使として葦原の中津国に天降る舞である。
八重垣の能とは、大蛇退治とも呼ばれる舞である。スサナオのミコトは天高原を追放され、出雲に落ちる際、簸の川の上流で足名槌、手名槌、両翁媼の娘、奇稲田姫を助けて妻とし、その仇、八岐の大蛇を退治する物語だそうである(逸見・竹本)。
以上の舞のうち古事記を元にしているものは、猿田彦の導きの舞、大蛇退治、岩戸開きの舞、国譲り、大蛇退治である。
古事記とは、太安万侶・稗田阿礼が編纂した日本最古の歴史書であり、神楽の演目に取り入れられている演目もある。天岩屋戸隠れでは、素戔嗚命の乱暴がいっこうに収まらないことに関して天照大御神は黙認していたが、遂に堪忍袋の緒が切れる事件が起こる。神の御衣を織る機屋に侵入した素戔嗚命が、皮を剥いで血まみれになった馬を天井から落とし入れると、機屋は大騒動となり、織女が転倒して死亡する事態となったのである。太陽神である天照大御神が恐れ失望し、天岩屋戸に隠れてしまったことで、高天原も地上界である葦原中津国も暗闇の世界となった。無数の悪神・悪霊も出没し、災いも多発した。
そこで、八百万の神々が知恵を出し合い、思兼命が立案した作戦が実行されることとなる。天宇受売命が裸で激しく踊り、神々が大笑いすると、天照大御神は岩戸を少し開け、なぜ暗闇の世界で皆笑っているのかと問う。天宇受売命は天照大御神より立派な神がいるからだと答える。鏡を差し出され、自分より立派な神が映っていると勘違いした天照大御神は岩戸から身を乗り出したところを、すかさず手力男神が外に引き出す。高天原と地上には、再び陽光が降り注ぐようになった(日本歴史探検の会,2012:46-48)。
「八岐大蛇退治」では、旅をする素戔嗚命の目の前に、娘が八岐大蛇の生贄に求められ、嘆き悲しむ老夫婦が現れる。老夫婦は夫は足名槌、妻は手名槌と名乗り、彼らの娘は櫛名田比売であるという。素戔嗚命は大蛇を退治する見返りに、櫛名田比売との婚姻を求めた。天照大御神の弟なら申し分ないと、老夫婦も快諾する。
しかし、八岐大蛇は巨大な怪物であり、真っ向から戦いを挑んでも勝てない。そこで、大蛇を大蛇に酒を飲ませ、酔わせるという計略を用いることにする。素戔嗚命は、酔った大蛇にすかさず剣を抜き、殺す。斐伊川は大蛇の血で真っ赤に染まったという。
このとき、大蛇の尾を切った剣が、何か固いものに当たって折れてしまった。不審に思った素戔嗚命が尾を刺し割ってみれば、中から大刀が出てきた。これは普通の大刀とは違う、と感じた素戔嗚命は、天照大御神に経緯を話して大刀を献上した。この大刀は、草薙の剣として後に伝わることとなる(日本歴史探検の会,2012:60-62)。
「国譲り」では、天照大御神が地上界を譲り受ける策を、再び思兼命に相談すると、天尾羽張神か、その息子である建御雷之男神ならば、どうにか取り計らってくれるのではないかという。早速天照大御神が使いを送り、建御雷之男命が派遣されることとなった。建御雷之男命は天鳥船神を副使として伴い地上界へ降り、大国主命の宮殿に近い伊那佐の小浜に上陸、十拳剣を抜いて砂浜に逆さに立て、その剣先に胡坐をかいたままの姿で、浜までやってきた大国主命と談判する。ここで国譲りを迫った。
建御雷之男命の姿を見て只者ではないと恐れた大国主命は、国を譲る決心をした。しかし、大国主命は現在国のことはすべて息子に任せているが、あいにく息子である八重事代主神は、狩りに出かけて留守であるという。天鳥船命が八重代主神を探して連れてくると、八重代事代神も父の意思に従い国譲りを完了する。そして青芝垣を作ってそこに隠れてしまった。建御雷之神に逆らう気はないという意思表示だろう。
これで国譲りも完了かと思いきや、大国主命は、自分にはもう一人、建御名方神という息子がいるという。その話を聞きつけて、建御名方神は自ら浜辺へ来た。この神は八重事代主神とは異なり、勝気である。千人でやっと動かせるほどの巨石を担いできて、力比べをしようと提案する。相手を挑発するやいなや、手を掴んだ。すると、建御雷之男神の手は剣の刃に変身した。建御名方神が驚いてたじろぐと、建御雷之男神はその一瞬の隙を見逃さず、逆に手を掴み返して握りつぶしてから、投げ飛ばしてしまう。建御名方神は恐れおののき、その場から逃走する。遥かに遠い科野国まで逃げてしまう。しかし、建御雷之男神も執拗に追跡して遂に諏訪湖の畔で捕らえ、殺そうとした。すると、建御名方神は出雲には決して戻らないので命たけは助けて欲しいと命乞いをする。建御雷之男神もこれを聞き入れ、地上界の国譲りは完了した(日本歴史探検の会,2012:76-78)。
「天孫降臨」、すなわち備中神楽に言う「猿田彦導きの舞」の元となる逸話では、大国主命一族の降伏により、地上界は高天原が統治することとなった。天照大御神は当初からの予定通り、息子の天之忍穂耳命を地上界の支配者として降臨させようとした。しかし、地上へ降りる準備をしている間に瓊瓊杵尊という息子が生まれたので、自分の代わりにこの息子を地上に降ろしてはどうか、と提案してきた。天照大御神はそれを了承し、瓊瓊杵尊が地上に遣わされることとなった。
しかし、地上界へ降りる道が八方に分かれる分岐点に、怪しい光を放つ謎の神が現れた。天照大御神は天宇受売命にその神に何者か尋ねてくるよう命じる。天宇受売命が分岐点まで降りて尋ねると、その神は猿田彦命と名乗り、天神の御子が降臨するので道案内をしようと思い、ここで待っているという。その手には後の「三種の神器」があった。
また、他にも数柱の神々が瓊瓊杵命に従って共に高天原から降臨している。一行は当初、筑紫の日向の高千穂に降り立ち、その後吾田(現在の鹿児島県)に移動している。瓊瓊杵尊は韓国に近く朝日や夕日の映える吾田の地を気に召し、葦原中国の統治拠点とした。
「天宇受女命と猿田彦命」では、猿田彦神は故郷の伊勢国へ帰ることとなった。瓊瓊杵命は天宇受売命を猿田彦神と結婚させ、これに仕えるよう命じた。天宇受売命は高天原の神々の中で最初に会ったという経緯もあり、洞察力の強い女神でもあった。猿田彦命は未だ謎の部分が多く、瓊瓊杵尊は正体を計りかねている。そこで、この不気味な国つ神が裏切らぬよう、天宇受売命を監視役として付けたのである。監視する・される者という関係ながら、二人の新婚生活はある程度仲睦まじく、心も通い合っていた。しかしある日、猿田彦命は漁に出かけ、貝に手を挟まれて溺れ死ぬ。天宇受売命は嘆き悲しみ、海の中にいる魚を集めて真相を聞き出そうとした。彼らに対して、天孫に仕えるかと問うと、魚は全て仕えると答えた。しかし海鼠だけは黙っており、天宇受売命は小刀で海鼠の口を裂く。そのために、海鼠の口は裂けたままとなってしまったという(日本歴史探検の会,2012:)。
芸北神楽とは、旧安芸郡(広島県西部)にある神楽のうち、太田川と江の川流域の芸北地方で行われている神楽を指す。大別すれば、「高田神楽」、「山形神楽」、「新作高田舞」の3種類である(三村,2013:34-35)。
広島県の神楽は芸北神楽,安芸十二神祇,比婆荒神神楽,備後神楽の4つの形態に大別することができる。県内の神楽団のうち,その約半数が芸北地方に存在し,なおかつブームといわれるほど盛況期にあることから,全国的には広島県の神楽といえば芸北神楽のことだと思われる場合が多い。最近では広島県の新しい観光キャンペーンの目玉としてもてはやされ,総称して「広島神楽」とも呼ばれはじめている。芸北地方に伝わる神楽は,隣接する島根県石見地方の石見神楽がルーツと言われている。石見神楽の原型は平安末期からの田楽と神事神楽との融合によって生れ、その後出雲の佐陀神能の影響を受けて、室町時代に今日の石見神楽はできあがってきたといわれている。
幕末の石見・芸北地方の神楽は、既に氏子(里人)によって盛んに舞われていた。しか
し明治政府が敬神の思想を唯一の政策としたことによって、神主の身分に一層の自負と自重が課され,芸人的で見世物風の神楽を演ずることは禁止され,祭礼に力を注がされるようになった。明治10(1877)年を過ぎると,民間神楽舞は次第に石見各地に波及していった。明治15(1882)年,浜田の国学者で石見国神道事務分局長であった藤井宗雄は,石見神楽により芸術的な気品を与え,出雲神楽に劣らない郷土芸術を育成しようという熱望から石見神楽の改正を試みている。その後も第二次台本改正,第三次台本改正が行われ,ますます庶民による神楽が隆盛を極めていた。
近年に至って,石見神楽が多くの人びとに知られるところになった最大の転機は、1970年に開催された「大阪万博お祭り広場」での神楽上演である。それまで郷土芸能としての神楽は,地域内のごく少数の人々の前で披露されるに過ぎなかったが,この「お祭り広場」の大きなステージでは,これまでのように二間四方で舞っていた神楽舞を広大なステージ空間に合わせて再構成して舞わざるをえなくなり舞の所作自体も変化した。文化・宗教・生活習慣が全く異なる不特定多数の見物人の好みに迎合したものへ変化したのである。演的な効果音や視覚的要素が存分に取り込まれた神楽は、演出家によって設定された時間内にそのエッセンスだけを短絡的に表現するものになり、従来の神楽とは全く趣の違うものとなった。
このような系譜をもつ石見神楽が,やがて中国山地を越えて広島県北西部に伝わり,第二次大戦直後,能や歌舞伎などの演目をもとに芸能性の強い神楽に脚色されていったものが,「芸北神楽」となり,そしていまの「広島神楽」となった。
戦後まもなく,広島県の,とくに娯楽に乏しかった農山村部では神楽に人気が集まり、新作神楽といわれる芸能性の高い神楽が作られるようになった。新作神楽は見栄えもよく内容も分かりやすいものであったことから多くの神楽団が競ってこれを演じるようになった。そして各地で神楽競演大会が開催されるようになった(高崎、2012)。
2018年3月18日、広島の安芸高田市民文化センタークリスタルアージョにて、芸北神楽のうち高田神楽を鑑賞した。安芸高田市は、中心部は毛利元就が収めた地であり、2004年には周囲に5つの町が合併して成立した市である(安芸高田市歴史民俗博物館)。また、周囲は山に囲まれている。以下の演目は18日に舞われたものであり、配布パンフレットをもとに演目の内容を記し、鑑賞して得られた情報も書き添えておく。
高田神楽において、神迎えとは、陰陽五行思想に基づき、東西南北に舞子を配して舞う四座神楽の代表的なものである。神楽殿に天神地祇、八百万の神の降臨を願い、神遊びの庭としようとする舞である(三矢の里神楽大会実行委員会)。四人の王子が「東西南北」のうちどの方角の何者か、と名乗りながら輪になって舞う。天井には四色の切り紙が飾られ、この配色も五行思想に基づくものと考えられる。
頼政鵺3退治では、平安時代末期、武家の棟梁である清和源氏4は嫡流である源頼政5より、傍流の源頼信の子孫たちへと時代は流れ、平治の乱において平家のものとなっていた。そのことを悲しみ、伊予の国で隠棲の身となっていた頼政の母、八重桐は常に我が息子、頼政の武勲を祈り、山中、赤蔵ヶ池へと通った。その池には、化生のものが住まい、八重桐は頼政の武勲を挙げることが出来るなら、自らが鵺となり、命を捧げることを誓う。自らが鵺となった八重桐は頼政に立ち会いの末、わが身をフタツノの梶矢で討ち取らせる。その鵺こそが母であったことに気付いた頼政は、母の深き愛を思い、再び源氏の白旗を挙げることを誓う(三矢の里神楽大会実行委員会)。
山姥では、源頼光6が東国の賊従平安のため渡辺綱を供に連れ信州明山に差し掛かる。明山には以前北面の武士7の妻でありながら夫に死別して都を追われた女性が住み、世を呪い人を恨み一子怪童丸とともに山賊に成り下がっていた。この山姥が頼光を狙ったが、頼光の武勇の前に屈し、せめてもと怪童丸の助命を願う。頼光は母の情に感じ、山姥を許し、怪童丸を家来にする。これが後の四天王の一人、坂田金時である(三矢の里神楽大会実行委員会)。
伊吹山では、日本武尊は幼名を小碓命といい、戦いの始め九州熊襲武を討ち、西国を従え、休む間もなく東国で戦い、やがて最後の戦いの場、伊吹山へと舞台を進める。しかし霊力をもつ草薙の剣はなく、猛毒を吹きかける邪神によって毒に犯されながらも、激戦の末にこれを討ち取る。生涯の使命を果たし、大和への道のりを辿り始めるも既に遅く、武尊は鬼神の毒牙によりその生涯に幕を閉じる(三矢の里神楽大会実行委員会)。
葛城山では、大和の国、葛城山に年古く住む土蜘蛛の精魂は、病に伏した源頼光を取って食おうと侍女の胡蝶に化身し、典薬の守より名薬と偽り、毒薬を頼光に飲ませ、一思いに取って食おうとするも、源家の宝刀「膝丸」を一太刀浴びせられ、葛城山へと飛び去る。頼光はこの宝刀を「蜘蛛切丸」と改め、四天王に授け、土蜘蛛の精魂を退治するように命じる。四天王卜部季武、坂田金時は、葛城山に向かい、土蜘蛛の妖術に悩まされながらも、激闘の末、土蜘蛛を退治するという物語である(三矢の里神楽大会実行委員会)。
走り水では、日本武尊は、相模国を平定して更に東の国へと進む。そして、走り水(東京湾の入り口)から上総(かずさ・房総半島・千葉県)へ船で向かった。船が都を離れると波は次第に荒くなり、走り水の名の通り、潮は南北に激しく走るように流れる。これまでの戦いに討ち果たした者たちの怨霊がこの波(浦賀水道)の海底に集い日本武尊を荒海へと引きずり込もうと襲い掛かるかのようである。底津王と霊快士という恐ろしい海の鬼神は、日本武尊第一の宝物を犠牲に差し出させようとしたのである。これを感じた弟橘姫は、武尊の今後の活躍を祈り、自ら荒れ狂う海に身を投げた。一瞬に海は青く静かになり、武尊は無事に上総の地を踏み、東の国へと向かう(三矢の里神楽大会実行委員会)。
羅生門では、平安の中期、京は不安な世情が続き、羅生門辺りには夜な夜な鬼が出没して領民を苦しめているという噂があった。そこで源頼光は四天王の一人渡辺綱に妖鬼を鎮圧するよう命ずる。渡辺綱は羅生門に赴き、家路に帰る途中の女性と出会う。その女性に照らす月の光からの影には恐ろしい鬼の姿が映し出され、その正体を見破る。その鬼こそ大江山に住む茨木童子であり、格闘の末片腕を切り落とす。哀れと思った大江山の首領酒呑童子は渡辺綱の乳母白妙に化けて腕を取り返そうとする。白妙は言葉巧みに渡辺綱の館に入り込み首尾よく切り取られた左腕を取り返す。渡辺綱は源頼光の助けを得て激闘するが、虚空飛天の妖術をもって酒呑童子は大江山に飛び去って行く(三矢の里神楽大会実行委員会)。
相馬城では、天慶3(940)年自ら「新皇」と称して関東一円を治めていた平将門が討たれた。その首はさらされたが、毎夜「体を返せ」と大声を発していた。そこに二人の人物、将門の子皐月と良門が現れる。彼らは父に復讐を誓い、妖術を得て滅んだ一族の屍を操り、皐月は「瀧夜叉」、良門は「酒呑童子」と名乗り、いよいよ朝敵となった。これを討伐しようと、源頼信と陰陽師大宅太郎光圀は都を発つ。そして物語は相馬城を舞台に佳境を迎える。瀧夜叉征伐と大江山酒呑童子の過去を題材とした大都神楽団の創作演目である(三矢の里神楽大会実行委員会)。
大江山では、一条天皇の御代、丹波の国は大江山酒呑童子という鬼人が立てこもり、多数の手下を従えて都に現れては人々を悩ませていた。そこで帝より大江山の鬼人征伐の勅命を受けた源頼光は、四天王を引き連れて大江山に向かう。山伏修験者に身を変えた一行は、大江山の山中で、血に染まった衣を洗う一人の娘と出会う。頼光はこの娘も酒呑童子によって都から連れ去られた一人と知り、童子の岩屋への道案内を頼む。頼光の一行は童子の岩屋へ案内され、道に迷ったので是非とも一夜の宿をお願いしたいと申し出る。これを怪しむ酒呑童子との問答の末、ようやく宿を許された一行は、都から携えた酒を酒呑童子に振る舞う。酔い伏して眠った酒呑童子の油断に乗じて切りかかった一行は、激しい合戦の末、見事に討ち取る(三矢の里神楽大会実行委員会)。
その他、塵倫・滝夜叉姫・悪狐伝といった演目もあるようだが、文献の入手が間に合わなかったためここでは割愛する。
3.備中神楽の演目と古事記の比較
古事記の流れと備中神楽の演目の順番は異なっている。古事記の順で言えば岩戸開き、八岐大蛇退治、国譲り、天孫降臨、天宇受売命と猿田彦命である。一方備中神楽では、猿田彦の導きの舞、猿田彦舞、岩戸開きの舞、国譲り、八岐大蛇退治という順序で進む。
古事記と備中神楽の演目における相違点に関して、岩戸開きでは、備中神楽と古事記の内容に関して、大きな差は見られなかった。
大蛇退治では、備中神楽において松尾明神が酒作りの神として登場するが、古事記には登場しないという点で相違がある。
国譲りでは、大きな差は見られなかった。
「猿田彦導きの舞」では、猿田彦の由来を説明するにとどまるが、天孫降臨においては瓊瓊杵命が統治拠点を見出すといった記述がある。
猿田彦舞では、古事記においては猿田彦が海で溺れ死ぬ逸話が出てくるが、備中神楽には出てこない。
4.芸北神楽と備中神楽の比較
芸北神楽(主に高田神楽)において、神事は神迎えである。一方備中神楽では、榊舞・白蓋神事が行われる。
高田神楽における演目には、頼政鵺退治・山姥・伊吹山・紅葉狩・葛飾山・走り水・羅生門・相馬城・大江山・塵倫・滝夜叉姫・悪狐伝等がある一方、備中神楽では岩戸開き・大蛇・国譲り・猿田彦の導きの舞・猿田彦舞等が演じられている。
死の場面では、高田神楽においてはヤマトタケルが逝去するが、備中神楽において死亡するのはおおよそ八俣大蛇のみである。また、神話に関連した演目としては、高田神楽では伊吹山・八俣大蛇等と比較的少ないが、備中神楽においては岩戸・大蛇・国譲・導き・猿田彦舞等多数存在する。
語り口調は、高田神楽ではおおよそ古語が用いられるが、備中神楽では古語に加え岡山弁も用いる。
信仰や思想に関しては、高田神楽では五行・神道・仏教等に影響を受けている一方、備中神楽では荒神信仰や五行・神道等の宗教・思想の影響を受けている。演目の成立に関しては、高田神楽では古典と関係したものが多い。一方備中神楽では、国学者の西林国境が神話劇を取り入れ、整備したものである。
神楽団員は、高田神楽では比較的若く、ジュニアの神楽団も存在する一方、備中神楽では比較的年配者が多い。
5.考察
古事記と備中神楽の演目の順序が異なっているのは、芸能的な演出の関係で順序を変えられた可能性もあるのではなかろうか。
備中神楽を実際に鑑賞すると、時事・流行を取り入れ、芸能色も強いものであると感じた。また、よく声を出す印象を受けた。同じ演目でも、年によって内容が変わるものであろう。一方、芸北神楽を見ると、市役所と併設の音楽ホールでも開催され、地域・行政も後援する神楽が舞われている。年齢層が若いこともあってか、非常に歯切れの良い舞であった。また、昔からこの地方の神楽を知る者に言わせれば、かつてはこれほど衣装や舞が華々しいものではなかったそうである。
英雄の死等、芸北神楽では死の場面が多いが、備中神楽において英雄が亡くなるような演目は存在しない。国学者の都合により整備されたり、または神道国家の政治権力とも関連しているのではなかろうか。
高田神楽における神迎えは五行思想を反映したものであるが、榊舞は神道のものである。元来そうであるか、もしくは国教である神道に変えられた可能性もあるのではなかろうか。
高田神楽において「山」という語が演目の名前の中にもしばしば登場することは、山中他界観と関連している可能性がある。現地の人が「あそこは山賊が出る」と自然に発することから、高田地方において「山」が意識されるものである可能性は否定できないであろう。また、「紅葉狩」における「紅葉」は、単に広島らしさがあるがためにしばしば演じられるのみである可能性もあるが、正に広島を連想させるものである。一方、備中神楽において、岡山の地方色を感じるのは岡山弁での語り口調にとどまる。整備される以前においては、岡山人の感性を表現するような演目は存在していたのであろうか。
神楽団員に関しては、高田神楽では比較的若く、ジュニアの神楽団も存在していた。備中神楽では神楽の準備を行った者が観客として掛け声を出すなど盛り上げることが多かったが、高田神楽においては若い神楽団の友人と思しき観客が掛け声を出すなど、民俗芸能のように現代人からしてある種特別な芸能としてではなく、通常の芸能のような楽しみ方をすることがしばしばあるのではないかと感じた。
演的な効果音や視覚的要素が存分に取り込まれた神楽は,演出家によって設定された時間内にそのエッセンスだけを短絡的に表現するものになり,従来の神楽とは全く趣の違うものとなった、と高崎は述べている。2018年3月に鑑賞した神楽は市役所と一体になったコンサートホールで開催されたものであり、地域・行政が後援するものであった。図1のようなパンフレットが配布され、図2のようなDVDがチケットの整理番号で当選する等、神楽を楽しみやすい工夫もなされていた。神楽の形態は、元来の姿と比較して変化していると感じる。
図1 神楽のパンフレット
図2 当選したDVD
6.結論及び今後の研究
今回の研究においては、備中神楽は神道色が見られる神楽であることが理解された。今後は、備中神楽が整備された過程について、元来の神楽に根付く死生観や感性と、備中神楽に変化を与えた国学や政治権力に着目して研究を進めていきたい。
参考文献
赤尾文夫 編、2000『日本史事典』旺文社
神崎宣武、1984『備中神楽の研究―歌と語りから―』岡山県美星町教育委員会
日本歴史探検の会編、2012『古事記―神社と神々の物語―』宝島社
三村泰臣、2013『中国・四国地方の神楽探訪』南々社
参考資料「第11回 三矢の里 神楽共演大会」パンフレット
参考サイト
http://www.akitakata.jp/ja/hakubutsukan/assets/history/
(2018年4月4日 最終閲覧)
高崎義幸、2012「『広島神楽』の伝承過程と興隆に関する社会学的研究」
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(2018年3月20日 最終閲覧)
「怪異・妖怪データベース」
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazou/index.html
(2018年3月20日 最終閲覧)
1 生命の根源を荒神として祀り、罪・けがれを荒神のなせる業と考えていた荒神祭祀は、備中神楽の特徴である(逸見・竹本,1983)。
2
3 頭が猿、胴体が虎、尾が蛇のようである(怪異・妖怪データベース)。
4 清和天皇の賜姓皇子の子孫(赤尾,2000:338)。
5 平安末期の武将・歌人(赤尾,2000:578)。
6 満仲の長男。摂津守など受領を歴任。藤原道長に仕え、土御門殿の新築に際し、家具・調度を多数献上した。武名高く、大江山の酒呑童子退治伝説もある(赤尾,2000:578)。
7 1905年、白河上皇の院政時代に設置された院司。院御所の北面で警護に当たった。この設置が武士の中央進出の契機となった(赤尾,2000:549)。
