中世の女性について

日本社会史Ⅰ レポート

現代社会学科3年 153007 岩本梨沙

2108年2月8日提出

まずは、講義内容についてまとめる。狩猟・採集初期農耕・繊維生産・衣類制作の社会においては、性別分業はありつつも、女性労働は重要な意義を持った。

持統天皇の代まで、男子による代々継承が確立しておらず、女帝が誕生した際には、自身が天皇の血筋を引き、高い地位を持った。しかし、父系血族への帰属意識が強化されるようになると、女性の公的地位、役割が減少し、女帝が姿を消し、女官の役割が縮小した。すなわち、父系社会が確立する以前には女帝たちも力を持ち、女帝が姿を消すのは父系社会が成立して以降のことである。武士の出自は天皇や貴族と深い繋がりがあった。また、武士は騎射の芸を家の職能として、朝廷に奉仕する一種の芸能者であった。

寺社は、ジェンダー不平等な婚姻に基づいて生まれた王族・貴族の子供たちが生きていく場所という側面を持った。また中世には多くの宗教者、特に仏教者が誕生した。鎌倉時代の諸戦争は、政権トップの政争や勢力関係の変化をもたらし、各地の地域勢力と地域社会の再編・変容に繋がった。また、戦争が行われ、暴力と武力が行使されることがしばしばあった。諸戦争によって地域社会の改変・再編が行われる一方で、死傷者や障害を負う人々がいたことも史料から読み取れる。

地震は、中世社会の生存環境に対して大きな影響を与えた。伊勢・近江の代表的港湾都市が壊滅すると、生き残った人々は近隣地域に移動し生業を再開した。ここで、近世に繋がる新たな町が形成された。また、現代とは異なり、地震だけでなく飢えと飢饉と疫病が頻発した。特に、大飢饉は何度も発生した。また、大飢饉でなくとも、飢えおよび飢えゆえの身体の状態は、中世庶民にとって身近なものである。中世社会にとって、飢えは慢性的なものであった。現代日本とは異なった厳しい生存環境であったが、人々はただ無力に生きていた訳ではなかった。食糧を確保する工夫を凝らしたり、飢饉の際に村人が故郷を離れたり、守護の代官による過酷な支配を訴える等、村人は生きるために主体性を持って行動した。

ここから、考察に移る。寺社は、現代と比較して大きな役割を果たしたと分かった。寺社は今や葬儀や儀式、観光を行う場になっており、言わば非日常の行為を行う場である。中世はそれと異なり、日常と共にある、様々な機能を持つ場であったことが伺える。この講義で取り上げられたのは、貴族の男性優位な婚姻に基づいて誕生した子供達の生きる場所という側面であったが、他の側面もある。例えば<講>と呼ばれる輪番祭祀が挙げられる。講では、一月単位や行事ごとで交替での祭祀が行われ、ムラ氏神の公式の信仰体系を補完する役割を果たした(紙谷,1983:166-7)。名称の由来に関して、<講>とは文字通り講義の<講>であり、すなわち僧侶がレクチャーを行った、学問を行ったり知識を与える場としての寺の姿が読み取れる。

有名な文書である『紀伊国阿氐河荘訴状』に見られる耳切り・鼻削ぎのように、中世の荘園制において地頭の非法行為が行われることがしばしばあった。しかし、農民はそれを黙認している訳ではなく申告していることが見えてきた。支配される側である農民は、ただ弱い立場にあって支配者に従ったかのように錯覚していたが、その印象とは全く異なり、より主体的な農民の姿が想像される。年貢に関しても支配者の言いなりになるのではなく、自らの状況を踏まえた上で、しっかりと要求を伝えていたと分かった。京都東寺領荘園である岡山県の新見荘でも、耳切り・鼻削ぎ程ではないが、年貢に関して地頭の行いを申告している事例が見られたため以下に記す。

百姓たちは百姓申状により、使者を通じて現地で代官を請け負っていた安富氏の支配を拒絶し、東寺による新見荘の直接支配・管理を要求してきた。新見荘においても請負代官というシステムが採用されており、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るというものであった。これはとても合理的なようで深刻な問題も抱えていた。安富氏は百姓たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けた上、東寺との契約にも背いて約20年間にわたって年貢を納めなかった。当時、飢饉の影響もあったため、新見荘の百姓たちの堪忍袋の緒が遂に切れたのである。新見荘の百姓たちは使者に命じて、荘園領主である東寺に直接支配して欲しい旨を伝言に託し話させる。話を聞いた供僧たちは、百姓たちが作成した起請文を東寺へ送るよう使者に命じ、新見荘に帰らせる。百姓達は早速起請文を作成し、そこで安富氏が新見荘の代官職に復帰したとしても新見荘の百姓たちは断じて受け入れないこと、東寺から来る代官を敬って年貢や公事を間違いなく納入することを誓っている。百姓たちの意志を確認した東寺の僧が室町幕府へ働きかけた結果認められ、約40年間にわたって続いた安富氏による請負代官支配は終結した(「東寺百合文書WEB」)。

飢饉の影響と相まって農民が上告するに至ったという点も興味深い。当時の農民が、農作物のうち納めるためのものである年貢の取り立てに加え、農作物が取れない、食べるものがないといった食べるための農作物すら取れない飢饉にまで苦しんでいた姿が想像される。農民にとって農作物・米がいかに重要なものであったか垣間見える。

このように、中世の女性は想像以上に強く生きていたと感じる。同時に、大陸的であったり、近代にも通じるような社会規範が未成立の社会だからこそ出来た行為であるとも思われるのである。例えば、大陸の影響を受けた父系社会が成立する以前は、女性が天皇になることが出来た。逆に言えば、父系社会が成立してしまうと女帝になることは出来ず、現代の天皇家でも同様である。あるいは、中世では女性労働が意義を持ち、和歌の中にも女性が農業や繊維生産を行う情景が見られた。しかし、より男性優位の社会に変化すると、その意義は薄らいでゆく。日本が元来父系社会であった訳ではない。歴史に関して語る際は、「昔」とはどの時代であったかに注意しなければならないと感じる。また、歴史的な社会規範が現在に必ずしも現代に通じるものではなく、偏見を取り去って洞察する必要があるのである。

参考文献 紙谷威広、1983「氏神と氏子」福田アジオ編『日本民俗学概論』吉川弘文館

参考サイト「東寺百合文書WEB」http://hyakugo.kyoto.jp/

(最終閲覧日:2018年1月26日)

 

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください