岡山市の祭祀と街並みから歴史的由緒を考える
はじめに
私が住んでいるのは岡山市にある津高台という団地である。おそらく新しい地域であるために地名辞典には名前が載っていなかったため、津高台の坂の下にある、津高という地区の歴史性と祭祀について主に調べることにした。また、岡山の城下町・市街地の景観に関する歴史的政策から、この地の歴史性について考察しようと思う。
津高について
まずは、津高と津高台について紹介しよう。ここは、現在は岡山インターに近い交通の便がよい場所であり、マスカット等の果物農園が点在する土地である。急な斜面も多く日照りが良いことから、果物その他農作物の耕作に適していることが伺える。津高台はかつて桃畑であったという話も耳にしたことがあり、現在でも近所付き合いの中で貰うことがある。
では、歴史的にはここはどのような土地であったのであろうか。藩政期のころ、ここ津高は中原村と呼ばれる集落であった。家庭の軒数は本村46軒、東原35軒の計81軒ほどであったそうだ。本村と東原と呼ばれるのは枝村と呼ばれ、1つであった村が何らかの理由により複数に分化したものであると考えられる。支配体制については、宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年から岡山藩領となった、というように記載されていた(竹内,1989:552)。
次に、信仰や祭日といった観点から中原村について述べよう。この村では御崎八幡宮と松尾大明神が信仰されていたそうであるが、現在は栢谷の神神社に合祀されているようである。なお、御崎八幡宮の<御崎>とは温羅伝説の温羅のことであって、岡山県下ではしばしば見られる名前である、と耳にしたことがある。また、祭日に関しては毎年春秋の彼岸の祭り、また月次祭と呼ばれる神道の祭りが行われているようである。
また、笹ヶ瀬川沿いには池田光政が川船を寄せて涼を楽しんだという旧跡があるそうである(竹内,1989:552)。津高台の夏祭りが夕涼み会と呼ばれるのだが、おそらくこの言われに則っていると考えられる。なお、夏祭りの準備を担うのは町内会の役目であり、10年に一度程担当が回ってくるようである。行われるのは金魚すくいや屋台、ビンゴゲームといったもののみで、神輿も担がなければ踊りも踊らない。津高では神道の祭りが行われている一方で、津高台では神社が関与している風もなく、宗教色が一切感じられないのである。新しい団地ならではのことと思われる。
岡山の城下町・市街地の景観の由緒
京都や近畿地方の出身者から、岡山は町並みが京都に似ている、としばしば言われることがあった。思えば、自宅の近所を夜に歩いてみると、今自分がどこを歩いているかさえ分からなくなるほど、道が直線状に整備されているように感じる。その後、岡山シティミュージアムで開催された「池田光政と絵図」の展示会に足を運んでみると、実際に岡山の城下町は碁盤の目に近いように直線状に整備されており、これが行われたのは光政時代の前期であったことが分かった。その名残で、現在も整った町並みとなっているのであると考えられる。なお、整備が進んだのはおおよそ慶安年間(1648-52)年頃のことのようである。また、池田光政とは備前岡山藩の藩祖であり、慶長14年(1609)に岡山城中で生まれた人物であるそうである(黒崎,1971:7)。
では、光政の道路整備はどのように進んだのであろうか。「岡山古図」とは、寛永9年(1632)の岡山転封のとき、忠雄時代の屋敷割り図を引き継いで、光政が自分の家臣の屋敷割りに使った岡山城下町図であるそうである。忠雄時代の家臣の名前の上や横に、貼紙で新しい屋敷主の名前を示しているようである。また、武家地はほぼ埋まっているが、「町」や「寺」とだけ書かれた地区も多く、町人地や寺地はまだ未整備であることが分かるという。武家地から整備が進んでいったということが分かる。武士が力を握ったこととも関連しているのではなかろうか。
まとめ・考察
地元地域の歴史性について考えてみると、景観が整っているのは歴史的背景があるなど、現在住んでいる地域のイメージと繋がる部分があり納得させられる部分があった。また、歴史ある地域は神社の祭が残っているが、そうでない新しい地域にはそういった祭がないといった地域差があると分かった。ただ筆者が住んでいる一地域であっても、そこに歴史との関わり合いがある。小さな地区に目を向け、歴史の大きな流れとすり合わせて考えることも、一種歴史について考える方法と考えられる。
参考文献
黒崎秀明、1971『岡山の人物』日本文教出版株式会社
